
茂平(楽山翁)
儒学者 櫻井楽山翁(1828年文政11年9月19日~1893年明治26年3月15日)
幼名廣吉 茂平 畴次郎 號 楽山 *諱(いみな)は義最 櫻井家四代目
妻は神林の上條氏より嫁ぐ。一男茂吉が跡を取り、後に茂平を襲名
父 畴次郎義邦 母 志う 旧姓高野(松本市寿百瀬)より嫁ぐ
*「諱(いみな)」とは、人が生前に用いる本名のことです。死後につける名前である諡(おくりな)と対をなす概念です。
武将の「織田信長」を例にとると、「信長」が諱であり、普段は「吉法師(きっぽうし)」などの通称で呼ばれていました。(AI使用)
学者としての業績
神主の梶原景教に師事し儒教と歴史を中心に学んだ。更に能の謡曲も得意とした。
嘉永時代の終わりに私塾を開き近隣の子どもたちに学問を教え、礼儀作法を教えの基礎とし、評判が隣村まで広がり、その数は300名余に達した。
明治5年になってからは、政府の勧める学校設立に際しては、率先して陳情し設立時には多額の資金を寄付し設立に貢献した。



*篆額
戸田 康泰(とだ やすひろ) 万延元年6月3日(1860年7月20日) - 明治36年(1903年)3月11日)
旧信州松本藩主戸田家の子孫で、戸田光則の長男
<経歴>
江戸呉服橋の藩邸で松本藩最後の藩主松平光則の長男として生まれる。太政官布告により、源姓松平氏を返上し、藤原姓戸田氏に復した。明治14年(1881年)11月、父光則の隠居により、家督を相続した。明治17年(1884年)7月8日に子爵となる。
明治15年(1882年)9月、オーストリア公使館在勤員外書記生となる。明治19年(1886年)、交際官試補となる。明治20年(1887年)、帰国する。明治31年(1898年)1月、式部官となる。また、明治22年(1889年)三条実美らと北海道雨竜郡に華族組合農場を経営したが、4年あまりで解散した。
(ウィキペディアより)

*「篆額」とは、石碑などの上部に篆書体で書かれた題字のことです。特に、石碑の表題部分に書かれた篆書を指し、漢代以降の石碑の様式として定着しました。(AI使用)

書
金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年10月30日) - 明治40年(1907年)5月13日)
は幕末期の志士、明治期の官僚、書家。通称は文八郎[1]。字は子誠。号は金洞(きんどう)・錦鶏など。変名に金井五郎・桑原梧楼などがある。長女は弁護士で政治家の小川平吉に嫁ぐ。錦鶏間祗候。
書は初め中沢雪城に学び、のち貫名菘翁の書風に傾倒した。明治書壇の有数の大家であり、日本書道会・書道奨励会の会長等を歴任し、明治9年4月に明治天皇が大久保利通邸を訪問した際には、日下部鳴鶴とともに席書を行った。
大久保利通が清に渡った際は、井上毅らとともに随行している。(ウィキペディアより引用)

文章
辻 新次(つじ しんじ、天保13年1月9日〈1842年2月18日〉- 大正4年〈1915年〉11月30日)
は、明治時代の日本の文部官僚。
旧松本藩士。男爵。号は信松。
信濃国松本出身。1866年(慶応2年)に開成所化学教授手伝並となり、明治に入ってからは大学助教、次いで大学南校校長となった。また1871年(明治4年)の文部省出仕以降は、学制取調掛、学校課長、地方学務局長、普通学務局長、初代文部次官を歴任。明治前半期のほとんどの教育制度策定にかかわったため、「文部省の辻か、辻の文部省か」と言われ[2]、また「教育社会の第一の元老」、「明治教育界の元勲」などと評された。この間、明六社会員となり、大日本教育会(後に帝国教育会)、仏学会、伊学協会の各会長にも就任している。1892年(明治25年)の文部省退官後は貴族院勅選議員、高等教育会議議員、教育調査会委員に選ばれたほか、仁寿生命保険、諏訪電気、伊那電車軌道の社長を務めた。(ウィキペディアより引用)




刻字
春日庫七 石碑に刻まれた文字は、長野県上伊那郡辰野町にある句碑に記されています。詳細は不明ですが、彼は上伊那郡小野出身の俳人です。
春日庫七の句碑について確認できた情報は以下の通りです。
句碑の所在地: 長野県上伊那郡辰野町小野 (AI利用)
これだけの*錚々たる方々によって石碑が完成した。
人脈も多く、人望も厚く、慕われた人物のためできた崇高な碑である。
*「錚々たる方々」とは、非常に多くの優れた人々が集まっている様子を表します。金属の音がさえて響くさまを表す言葉が語源で、そこから転じて、ある分野で特に傑出した人々が揃っていることを意味します。 読み方:「そうそうたる」(AI利用)



下今井神社北東角にある櫻井楽山翁筆塚
この筆塚は当初、赤坂にあったものを大正6年10月18日に下今井神社北東側に移設され六代目櫻井傅司が中心となり「楽山翁筆塚移転落成式」が行われた。

赤坂上に建てた最初の碑①
明治32年1899年1月より計画開始
明治34年1901年5月26日竣工
大正6年1917年8月15日移転慰労会

下今井神社北側に移転時
明治32年1月より門弟らによって建設準備が始まり、明治34年5月26日に竣工した。
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今井の赤坂上に建ってから16年後になぜ移転したのか不明だが、七代目傅司が中心となり移転した。
この時はまだ門弟や教えを乞うた人が多くいて支援してくれたと推察する。
旧地の赤坂上も下区四耕地の土地があるので、そこに建っていたのではないか。道路拡張のため移転したのかもしれない。






晩年の要職



愛用の携帯用豆辞典(唐詩選字引 全) 縦10.7cm×横7.5cm





儒学の教科書
○四書


○五経

四書五経(ししょごきょう)は、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称。
四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいい、五経を以て四書よりも高しとする[注 1]。「楽経」を含めて四書六経ともいう。
この書物は同類のものが複数あることからは教材であり自身のものでもあった。
近在の生徒に読み書きを教えることだけではなく、かなり高度な教育も行っていたことがわかる。
江戸時代終わりごろ江戸幕府は、儒教(朱子学(しゅしがく))を思想・教育の基幹としていたため、藩校や一般民衆の学校【寺子屋】でも教科書は中国の書物が使われていた。
若い時からの写本

古書は楽山翁が写本したもの

手書きの古地図






ほとんどの書物は自らの写本
「地理細論集」とは、日本の古典的な地理書の一種で、特に地誌や地域に関する詳細な情報をまとめた書物です。具体的には、国書データベースによると、「地理細論集」は柴田太久綱豊によって文政2年(1819年)に書写された4冊の本で、京都府立京都学・歴彩館に所蔵されていると国書データベースは記載しています。(AI利用)

櫻井義最(楽山翁)がこの書物を写本したのではないか。
表紙も私製で自筆、文の筆跡も似ている。
事実とすれば100ページもの写本は快挙である。
この事実を裏付ける証拠が出てきた
この書物は表装もしっかりしているので、購入したものと思っていたが写本であり、製本も生徒が書いた習字紙を使用した。


巻末欄に櫻井義最の下に写とあった。
これで「地方―地理細論」をはじめ多くの写本を成し遂げたことが実証できた。

新政府による通達内容(書類を写したもの)





葬儀には350名が参列した。安養寺に加え、地元の法輪寺、正覚院、*正念寺他寺も加わった。
*正念寺は、松本地方では数少ない天台宗淨発願寺派末の寺で、正念寺阿弥陀如来半跏像及び両脇侍立像は同寺の本尊である。木食僧相阿上人の作で松本市の重要文化財 松本市寿中1-28-7




